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ナイル10月号掲載評論【漂泊の歌人 平田豊】 [ナイル短歌工房]

 平田豊、と聞いて、ああ、あの歌人ね、と思い当たる方はほとんどいないと思う。私もそうだったから。彼はむしろ、初めて性交渉によるエイズ感染をカミングアウトしたことで知られている。

 手許に、旧い録画ビデオがある。『彼のいない八月が エイズを宣言した平田豊2年間の生活記録 テレビマンユニオン/CX』。是枝裕和監督が、彼の没前二年を追ったドキュメンタリーだ。飄々と生きるあまり、それに耐えられないボランティアさんが離れてしまうこともあった前半と、共同生活の場を作ってからも、独りになることを恐れ、テレビクルーにも来訪を求める後半と。あまりの壮絶さに、録画した後一度見たきりで、今度原稿を書くために、やっとのことで見返した。

 サイトメガロウィルスによる失明寸前、最初の著書が届いた(『あと少し生きてみたい』一九九三年、集英社)。タイトルについて、出版社と葛藤があったらしい。彼は、「(失明する前に、本を)見られてうれしい」と言いつつ、「『あと少し生きてみたい』って、もっと生きたいんだよね。」と漏らした。

 当時、私は、HIVや安楽死、尊厳死に興味を持っており、彼の著書を求めた。ビデオでも、彼が歌を詠み、色紙に書くシーンはあったのだが、改めてじっくり読むことができた。

 彼には詩才があったのだろう。石川啄木の歌に触発され、高校生の頃から作歌を始めた。

  不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心(石川啄木)

 彼は学習雑誌に投稿し、入選を重ねた。選者であり、傾倒した寺山修司を、訪ねてもいる。

  春の陽のにおい残れり黒やみで衣服脱ぐときめらめら甘し

  「ひょっとこ」の口のおかしさ心重く人に生まれた事を問うとき

  名前なき暗きトンネルを通るとき「文明」という語重く離れず

  空間へ打ちこもうとする杭のためわれ愛す人遠くへ去れる

 寺山修司から選者を替わった前登志夫が、彼を訪ねたことがある。(「あと少し生きてみたい 七六頁」
 「将来、どうするつもりなのか。もっと歌の勉強をする気があるなら、私のところへ通ってみないか」

 彼は結局、短歌を選ばなかった。

 歌を離れた理由を、のちに彼は述べているが、高校生の彼は、都会の喧噪に惹かれていたのだと思う。東京の大学を卒業後の生活は荒れている。学校教諭、楽器販売、愛人、パチンコ、麻雀……。

 その間、彼が歌を詠んでいないことの、ほんとうの意味は何だろう。彼のアイデンティティは、どちらにあったのだろうか。

 規則的な生活をしようと、パチンコ店に勤めた矢先に、エイズを発症する。彼は同性愛者だったし、サウナのハッテンバにも出入りしていたから、感染の経路など分かりはしない。

 発症と同時か、しばらくしてか、彼は再び歌を詠みはじめる。歌の内容は、彼が「肉声の叫び」と述べるとおり、壮絶である。

 歌を離れ、また戻った理由を、彼は、自身の言葉で語っている。少し長いが、引用する。

 十代の終わりまで短歌をつくっていたが、その後しばらくやめようと思ったのは、塚本邦雄らの難解で、肉声をはなれた歌が主流になってきたことに対する反感からだった。「短歌は大衆の肉声の叫びであるべきだ」と私は考えていた。

 その後の短歌の世界は、抽象的で難解なものが主流を占め続け、また他方で、俵万智に代表されるカタカナ短歌、ローマ字短歌の新しい流れが生まれた。私は彼女のカジュアルな感覚が嫌いではない。だが、最近の若い歌人に見られるように、定型におさめる苦しさ、その歌から見える詠み手の屈折が感じられないようでは、ただの飾りものになっていく危険性もあるのではないか。やはり短歌は本人の叫びだと思う。そう思ってきたから、私は歌壇や結社からは遠いところにいた。

 短歌はこれまでも病気、病人の支えとなってきた。ハンセン氏病だった明石海人、乳癌を病んだ中条ふみ子もいる。エイズだとわかったとき、私は「何か短歌で残したい」と思うようになった。「エイズを考える会」が発足する前に「梟門」という店でわいわい騒いでいたとき、みんなから「短歌を作れ」と言われたことがきっかけになって本格的に再開したのだが、まだまだ自分では幼稚だと感じている。エイズ患者というだけでものを言いたくない。やがては短歌を作っていた人がたまたまエイズになったのだと言われるようになりたいと思う。
(『あと少し生きてきたい 一〇三-一〇四頁』

 この後に、数首、歌が引かれている。ひとこと言いたいのは、自解しないでほしかった。感性のある人なら、分かることであるから。

 エイズを発症して後の彼のふるまいは、前述の『彼のいない八月が』に詳しい。入退院を繰り返しながら、少し体調がよいと、都心に出てチェリーボーイを買ってしまう彼に、離れるボランティアもあったという。合併症は容赦なく進む。テレビクルーとの間にも変化が生じ、失明する彼に、紙粘土で間取りの模型を作ったりする。たぶん、泊まり込みもあったろう。

 危篤になってからは、撮影しないでほしいと頼んでいたらしい。院外からのシルエット、死去のテロップでビデオは終わる。

 彼は、三冊の著書を残している。とはいっても、『それじゃあグッドバイ』は口述筆記、『いつか晴れた海で』は死後の出版だ。『いつか晴れた海で』には、写真つきの短歌が掲載されていて、選歌は、俵万智だ。短歌は三冊ともに掲載されているけれど、彼の歌集といったら、これなのだろう。前登志夫に入門していたら、彼の人生は変わっていたのだろうか。否、彼の人生は、これより選びようがなかったのだと思う。そして、いろいろな批評があるだろうが、彼はやはり、歌に帰った歌人なのだと思う。

  なにゆえに生きねばならぬおだやかな秋の陽だまりを楽しんでいる

  治療なき午後のひと日を母といて死の外側を考えている

  体よりいろんな線を吐き出して手術室へ行くストレッチャーに乗る

  あちこちで馬の如く悲鳴して夜の病棟静まりかえる

  姉は涙を流し頑張ってねとリンゴをひとつ置いていくなり

  傷つくのは心なのか眼滴をするという日山は静か

  青春は悲しかりけり今くさりゆく青き無花果

  私にも故郷はある菜種咲き潮の香漂う静かなる町

  母恋し海へ押しゆく菜の花の荷車の上を海燕舞う

  あのぶどうはすっぱいと言いしきつね われもまた人の世は哀しいと言う

  すみれの花がとってもきれいねときつね 人々の目は血の色をしている

  広くて青くて水平線光る浜辺に座れば冬の陽匂う一人だから

  我がキルト青空に舞え胸を張れ ゲイである事 エイズである事

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